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ゾススクールの叱責動画が大炎上!学生が感謝してればパワハラじゃなくなる説

ゾスの叱責動画がパワハラすぎて大炎上
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2026年2月7日、ある大学1年生のスクール生が、みんなの前で指導者に容赦なく詰められる動画が、わずか数日で2900万回以上再生されて話題になりました。

「1ヶ月走って6万とかありえねー」「いてもいなくても変わんない」「クビ」。

画面越しでも胃がキュッとなるような、あの空気感。

これは、グローバルパートナーズの無料ビジネススクール「ゾススクール」でのリアルな一幕とのこと。

ネットでは「パワハラだ」「公開処刑だ」と批判が殺到する一方、叱られた本人が「100%自分が悪い。良い刺激になった」と投稿し、議論を読んでいます。

擁護派からは「これで炎上する日本はぬるい」「無能と思わされてこそ頑張れる」という声もあって、いったいこの騒動をどう受け止めればいいのか。

パワハラなのか、愛の鞭なのか、それとも別の何かなのか。

今回は、この炎上の裏側にある構造を少し掘り下げてみたいと思います。

ゾススクールの叱責動画が大炎上

まずは「何が起きたのか」を整理しておきましょう。

炎上の火種となった動画は、ゾススクールの「振り返りミーティング」を撮影したもの。

叱られていたのは大学1年生の山本空氏。

目標40万円に対し6万円しか達成できず、達成率はわずか15%という結果でした。

指導者の塚原太郎氏が公開の場で猛烈に詰め寄り、「ありえねー」「クビ」「新規の営業からやり直せ」と畳みかけたのです。

連絡が取れなかったこと、イベント不参加だったことも次々と指摘され、周囲のメンバーにも「どう思う?」と同意を求める場面がありました。

最後に山本氏が「僕が変わります」「ゾス!」と気合いを入れるところで終了。

 

TikTokからXへ拡散され、閲覧数は3100万超

リプライ2000件以上で、大半が批判的な内容だったのです。

では、なぜここまで人々の怒りを買ったのか。

理由はシンプルで、「みんなの前で人を追い詰める」という行為そのものが、多くの人にとって生理的に受け付けなかったからでしょう。

Xで「怒られてる本人以上に、周りがダメージ受ける」という投稿が多くの人の共感を集めましたが、なかなか的確な指摘だと思いました。

公開叱責の本当の怖さは「次は自分かも」という恐怖が組織全体に広がること。

誰もミスを報告しなくなり、誰も意見を言わなくなる。

ある投稿では「組織を腐らせる最短ルート」と表現されていましたが、営業組織のマネジメントを少しでもかじった人なら、深くうなずくのではないでしょうか。

印象的だったのが、家康の「叱りは1対1、褒めはみんなの前」という教えを引き合いに出した投稿に共感が集まったことです。

400年前の戦国武将ですら理解していたことを、令和のビジネスパーソンができていない。

そう考えると、今回の炎上は当然の流れだったのかもしれません。

一方、本人の反応が衝撃でした。

Xで「100%悪い」「ここまで言ってくれる上司は今の時代珍しく、感謝している」という投稿が6万いいね超え(2月10日現在)。

でも、この感謝にネットは二分されました。

擁護側は「謙虚で立派だ」「インターンで6万も売ったのはすごい」と称える一方、批判側は「ストックホルム症候群ではないか」と心配の声を上げたのです。

ストックホルム症候群は、圧力下で加害者に好意を抱いてしまう心理現象で、ブラック企業やカルト集団の文脈でよく例えられる用語です。

「将来、同じこと繰り返すかも」という懸念もありました。

つまり、今は感謝していても、自分が上の立場になったとき同じ叱責スタイルを「正しい教育」として再生産してしまう危険性があるということ。

暴力が世代間で連鎖するように、パワハラ的な指導も連鎖するのではないか。

正直、これはかなり鋭い指摘だと感じました。

 

SNSで共感が爆発したのは「教育の履き違え」という視点です。

厳しい指導と暴言の線引きを見失っているのではないか、という問題提起。

専門家の新田龍氏がパワハラ3要素(優越的な関係・威圧的な言動・環境を害すること)のすべてを満たすと指摘し、この投稿は9020いいねを記録しました。

炎上の論調を決定づけたと言っても過言ではありません。

歴史的な分析も興味深いものがありました。

「根性思想のルーツは1964年の東京五輪にあり、スポ根文化がビジネスに残っている」というもの。

つまりゾススクールの指導スタイルは、60年前の文化遺産を令和に持ち込んでいるとも言えるわけです。

根性で乗り越える美学は日本人の心に深く刻まれていますが、2026年の若者教育に同じ手法をそのまま適用するのは、さすがに無理があるのかもしれません。

なぜ若者がゾススクールを自ら選ぶ?納得の背景

「なんでそんな厳しいところ行くの?」と思いますよね。

でも実は、ゾススクールには応募が殺到しているのです。

2025年の「ゾス飲みダンス」炎上(5500万再生)後には、むしろ応募が増えたという話まであります。

ここには、令和の若者が抱える切実な事情と、企業側の巧みな設計が絡み合っています。

なぜ若者たちは、わざわざ厳しい環境に自ら飛び込むのか。

その心理構造を3つの角度から見ていきましょう。

①稼げるようになりたいという焦燥感

最大の理由は「このままじゃ稼げない」という焦りです。

大学を出ても安定した職に就ける保証はなく、終身雇用はとっくに崩壊し、年功序列で給料が上がる時代でもない。

SNSを開けば同世代が起業して月収100万円を稼いでいる投稿が流れてくる。

「自分には何のスキルもない」という不安が、若者たちの心をじわじわと侵食しているわけです。

そんなとき「無料で営業スキルを学べて、稼ぐ力が身につく」と言われたら、飛びつきたくなる気持ちは理解できます。

ゾススクールは学歴も肩書きも不問で、限定10名の少人数制。

座学ではなく実際の営業現場に出て数字を追いかけるスタイルなので、「リアルに使える力がつく」という説得力があるのでしょう。

大学の講義で理論を学ぶよりも、現場で揉まれた方が本物の力がつく。

そう考える若者にとって、ゾススクールは格好のトレーニングジムのような存在に映っているのかもしれません。

 

②コミュニティ内での強固な帰属意識

次は「居場所」の欲求です。

Z世代の孤独に、ぶつかり合うコミュニティが刺さっている構図があります。

コロナ禍でリアルな人間関係を築く機会を奪われた人も少なくありません。

大学に行っても友達ができない、サークルにも馴染めない、バイト先でも浮いている。

そういう若者にとって、「本音をさらけ出せ」「本気でぶつかれ」という環境は、むしろ心地いい場合があるのです。

「ゾス!」という掛け声に象徴される独自文化は、部活に近い構造

共通の言語、共通の価値観、共通の目標。

厳しい練習を共に乗り越えた仲間との絆は、ぬるい関係よりもずっと強固になります。

高校時代に部活で死ぬほど走らされた経験が、今となっては一番の思い出だという人も多いはず。

あの感覚に近いものがここにはあるのだと思います。

でも、帰属意識が強すぎると「外の世界が見えなくなる」リスクがあります。

ネットで「宗教っぽい」「カルトみたい」と言われるのは、まさにこの点を突いた批判。

「仲間のためなら無理もする」「辞めたら裏切り者」といった空気が生まれやすい構造は、冷静に観察しておく必要があるでしょう。

最新のポストでは、現役生が「無能と思わされて頑張れる」と擁護する一方、ビジネスモデル自体を「イカれてる」と批判する声も出ています。

この温度差こそが、今回の炎上の根深さを物語っているのかもしれません。

③厳しさの先にある成功体験への期待

3つ目は「厳しさを超えた先にある成功」への期待感。

これは筋トレと同じ理屈です。

今はキツくても、このキツさの向こうに理想の自分が待っている。

その信念があるからこそ、人は苦しいトレーニングに耐えられるわけです。

卒業生からは「厳しいけど成長できた」という声が実際に上がっています。

山本社長自身も光通信時代に1万人規模の営業組織を構築し、売上1兆円を達成した実績を持つ人物。

「この人についていけば、自分も変われるかもしれない」という希望は、それなりの説得力を持っています。

 

ただ、ここに落とし穴が潜んでいます。

成功への期待が大きすぎると、途中で受ける理不尽を「成長のための試練」と勘違いしてしまうのです。

営業の世界に厳しさは確かにつきもので、数字が出なければ詰められるのはある程度は仕方のないこと。

しかし「厳しさ」と「人格否定」は本来まったく別物です。

目標未達を指摘するのと、「いてもいなくても変わらない」と存在そのものを否定するのとでは、天と地ほどの差があります。

若者の欲求と企業の「本気者選抜」がマッチすること自体は、悪いことではないでしょう。

「稼ぐ力がほしい」と「生産性の高い人材がほしい」、「仲間がほしい」と「文化に馴染む人材がほしい」、「成功体験がほしい」と「本気の人だけ残ってほしい」。

この噛み合わせは理にかなっています。

問題は、その過程でメンタルや人権が犠牲になっていないかどうか、という一点に尽きるのではないでしょうか。

納得してればパワハラじゃない?法的境界線

さて、ここからが今回の炎上で最も議論を呼んでいるポイントです。

会社側は「雇用関係のない無料スクールだから、パワハラには該当しない」という立場。

人事担当役員の手島絵理子氏がXで謝罪を投稿し、「不適切な発言を深く反省」「指導者への再教育を徹底」と表明しましたが、同時に「雇用ではなくスクールの場」であることを繰り返し強調していました。

この主張、果たしてどこまで通用するのでしょうか。

法律の専門知識がなくてもわかるように、噛み砕いて説明してみます。

 

まず、日本の法律でパワハラを定義しているのは「労働施策総合推進法」という法律です。

パワハラ成立の3要素は、

  • 優越的な関係を背景にしていること
  • 業務上必要な範囲を超えたやりすぎの言動であること
  • 心や体にダメージを与えていること

であることがポイント。

この3つが揃うとパワハラ認定される仕組みになっています。

「うちのスクール生は労働者じゃないから、この法律は適用されない」というのが会社側のロジック。

確かに、法律上の「パワハラ防止義務」は雇用関係にある労働者が対象なので、形式的にはこの主張にも一理あります。

でも、話はそう単純ではありません。

雇用関係がなくても、民法上の「不法行為」として損害賠償を請求できるケースがあるからです。

 

たとえばスクール生が公開叱責によって精神的苦痛を受け、うつ病を発症したとしましょう。

この場合、「労働者じゃないからセーフ」とはならず、民事訴訟で賠償責任を問われる可能性が十分にあるのです。

実際に、インターン中のハラスメントが社会問題化していて、ある調査ではインターン参加者の47.4%が従業員からのハラスメントを経験しているというデータもあります。

この数字、正直かなり衝撃的ではないでしょうか。

さらに見逃せないのが、2026年に施行される法改正の動きです。

就活生やインターン生に対するハラスメント防止が事業主の義務として強化される方向で、グレーゾーンは確実に狭まっていきます。

つまり、今は法的にセーフだとしても、時代の潮流は「雇用関係の有無を問わず、人を傷つける行為は許さない」という方向に向かっているわけです。

 

では、「本人が同意していれば問題ないのか」という論点についてはどうか。

ゾススクールは入校時に同意書を取っていると言われていますし、参加者は社風を理解した上で入っています。

叱られた山本空氏本人も「感謝している」と述べている。

だとすれば、外野がとやかく言う話ではないのではないか。

擁護派の主張はおおむねこのラインに沿っています。

しかし、法律の世界では「合意があれば何をしてもいい」とはなりません

たとえば格闘技の試合でお互いに殴り合うことに同意していても、ルールを逸脱した攻撃で怪我をさせれば傷害罪になりえます。

同じように、教育という名目で合意を取っていても、人格否定レベルの暴言や公開処刑的な叱責が「人権侵害」に達していれば、その同意は法的に無効になる可能性があるのです。

ここで大切なのは「同意の質」という考え方ではないでしょうか。

入校前に「厳しいですよ」と説明されて「わかりました」と言ったとしても、実際の内容が事前の想像をはるかに超えていた場合、それは本物の同意と呼べるのかどうか。

また、コミュニティへの帰属意識が強まった状態で「嫌なら辞めればいい」と言われても、心理的に辞めるという選択肢が取れないなら、それは実質的な強制と変わらないのではないか。

この境界線は非常に曖昧で、だからこそ議論が紛糾しているのだと思います。

 

2月10日現在、ネットでは労基案件を疑う声や「炎上商法では?」という指摘が増えています。

個人のSNSでの返信対応がコンプライアンス的にどうなのかと話題になっている点も見逃せません。

企業の公式対応とは別に、個人アカウントの発言がさらなる炎上を呼ぶパターンは、SNS時代の典型的な落とし穴でしょう。

ひとつ補足しておきたいのが、営業の世界における「厳しさ」そのものを全否定するつもりはないということ。

数字がすべての世界で、目標未達に対して厳しいフィードバックが飛ぶのは、ある意味で当たり前の光景です。

昭和の時代に「売ってこい!帰ってくるな!」と営業に叩き出された先輩たちが、結果的にトップセールスになったという話もゴロゴロあります。

「あの厳しさがあったから今の自分がある」という実感を持つ人が一定数いるのは、間違いない事実でしょう。

でも、令和はSNS拡散の時代。

社内の出来事が社内で完結していた時代はもう終わりました。

動画の文脈も意図も関係なく、切り取られた数十秒が一人歩きして、企業の評判を一夜にして変えてしまう。

これは良し悪しの問題ではなく、もはや「そういう時代に生きている」という前提で行動するしかない現実です。

過去の「ゾス飲みダンス」炎上では応募が増えましたが、今回はパワハラの専門家が法的分析を交えて発言し、ニュースメディアにも取り上げられるなど、明らかに質が違います。

「厳しい指導」が「パワハラ」と名前を変えた瞬間、企業が背負うリスクは桁違いに大きくなるのです。

叱責した側の塚原太郎氏は、入社3ヶ月で事業部長になった人物。

Xでは「何か言いたい人は直接コメントして」と呼びかけ、批判に対しても「熱すぎるのも鬱陶しいか」「4ヶ月前まで大学生だった」と謙虚に返信していました。

その姿勢には、良くも悪くも「ゾスマインド」が染みついているのだと感じます。

ただ、指導者としての経験値が圧倒的に不足しているのは否めません。

「怒りの伝え方」を知らないまま人を預かる立場になると、こうなるという典型例なのかもしれません。

この炎上から学べることがあるとすれば、それは「内輪の常識は外の世界では非常識になりうる」というシンプルな教訓です。

社内やコミュニティ内で「これが普通」と思っていることでも、ひとたび外部の目に触れれば、まったく違う評価を受ける。

動画の切り取りが一人歩きする怖さを、改めて痛感させられる出来事でした。

これはゾススクールに限らず、あらゆる組織に当てはまる話です。

厳しさ自体は悪くありません。

営業の世界で甘いことだけ言っていても数字は上がらないし、「ぬるい環境じゃ成長できない」という実感を持つ若者が増えていることも事実。

問題は「厳しさの形式」であって、「厳しさそのもの」ではないのです。

伝えるべきことは同じでも、公開の場で人格否定する方法と、1対1で冷静にフィードバックする方法では、結果も周囲への影響もまるで違います。

 

今回の炎上を「パワハラか愛の鞭か」という二択で語るのは、少し乱暴なのかもしれません。

本当に問われているのは、「厳しく育てる」という目的に対して、その手段が適切かどうかという話。

そしてSNSという巨大な拡声器がある時代に、組織の内部文化をどう守りながら外部との接点を持つかという課題。

最新の流れでは、専門家の分析が広まり、昭和気質の厳しさを求める若者が増える一方で、境界線をめぐる議論はますます深まっています。

ゾススクールの炎上は、日本社会全体が抱える「指導」と「ハラスメント」の境界線について、改めて考えるきっかけを投げかけたのではないでしょうか。

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