「また滋賀医大か」——そんなため息混じりの声が、ここ数年でネットの定番フレーズになってしまったとしたら、それはもはや偶然では片付けられない事態なのかもしれません。
2026年6月、滋賀県立総合病院の元研修医(滋賀医大関連と報じられることが多い)が、出産直前の妊婦を腕時計型カメラで盗撮したとして書類送検されました。
2025年8月頃に起きたこの事件が、2026年6月に書類送検という形で世に知られることになったわけです。
医師を志す人間が、帝王切開直前・麻酔消毒後の妊婦を「勉強目的」で撮影したと言ってのける——この感覚のズレに、多くの人が強い違和感と衝撃を覚えたはずです。
しかもこの事件、実は梅田での別件逮捕をきっかけに発覚したもので、余罪は自己申告だけで100回以上にのぼるといいます。
「勉強目的」という言葉の空虚さが、かえって事件の闇を深く見せているように思えてなりません。
そして今回の件が特に衝撃的なのは、これが滋賀医大に関連する「初めての事件」ではないという点に尽きるでしょう。
30年前の助教授による写真無断掲載、4年前の学生集団暴行事件、そして今回の盗撮——同じ場所を繰り返し指し続けるかのように、この大学の名前が性犯罪の文脈で何度も浮かびあがってきます。
なぜこんなことが続くのか。
医師免許はなぜ守られ続けるのか。
医療への信頼はどこへ行ったのか。
一つひとつ、丁寧に整理していきたいと思います。
滋賀医大が性加害大学と揶揄される恐怖
「性加害大学やないかい」「また滋賀医大か…」というSNSの声は、今回の書類送検報道を機に爆発的に広がりました。
怒りというより、どこか疲れたような「またか」感が漂っているのが、かえって不気味でもあります。
正直、これには改めて考えさせられました。
一つの大学の名前が、ここまで繰り返し性犯罪の文脈で検索されるようになるには、それなりの「蓄積」が必要なはずです。
単発の不祥事であれば、大学側の謝罪と再発防止策でいったんは沈静化するものでしょう。
ところが滋賀医大の場合、1995年、2022年、そして2026年に書類送検された事件と、まるで定期便のように問題が浮上してきます。
しかも毎回「産婦人科」という、患者が最も無防備になる診療科が絡んでいる点も、世論の拒絶反応を強める一因ではないでしょうか。
医学部という場所は、外部からは見えにくい独特の閉鎖性を持っています。
教授・准教授・助教・研修医というピラミッドの中で、下の人間は上の空気を読みながら生きていくわけです。
患者に対しては圧倒的な知識と権限を持つ「先生」であり、病院内ではある種の聖域に守られた存在でもあります。
その構造的な権力の非対称性が、倫理観の緩みを生むことがある——そういう指摘が医療界の内外から繰り返されていることは、決して見過ごせない問題です。
ネット上で「性加害大学」とまで揶揄されるようになったのは、事件の数だけでなく、「大学側の対応の甘さ」への不満も積み重なっているからではないかと思います。
訓告処分、謹慎処分——そういった言葉が報道されるたびに、「それだけ?」という不信感が積み上がっていくのです。
怒りの矛先が大学全体に向かうのは感情的な反応ではあるものの、その背景にある構造的な問題を、冷静に見つめる必要があるのではないかと感じています。
30年前から続く産婦人科の倫理欠如
今回の事件を語るうえで、どうしても外せない「前史」があります。
1995年に出版された一冊の本が、当時の女性たちの怒りを爆発させた事件です。
この「30年前の出来事」が、現在の事件と地続きになっているかもしれないという視点は、ぜひ押さえておきたいところです。
8530人分の外性器写真が「学術書」として出版された衝撃
元滋賀医科大学助教授で産婦人科医だったB氏(1933〜2002年)は、1995年に専門書を出版しました。
そこには8530人分の外性器写真が掲載され、形状や大きさなどを統計的に分類・分析した内容が「学術書」の体裁でまとめられていたのです。
問題の核心は、この写真の多くが診療中の患者を無断で撮影したものだったという点にあります。
大学の特別調査委員会も「口頭・文書による同意は認められていない」と認定しています。
患者たちは産婦人科の診察台に横たわっていました。
診察という名目で訪れた場所で、知らないうちに写真を撮られ、本に掲載されていた——その事実は、被害者のプライバシーと尊厳を根底から侵すものだったと言えるでしょう。
女性団体や自由人権協会からは「医療を悪用した人権侵害だ」と猛抗議の声が上がりました。
しかし大学側の対応は「訓告処分」のみ。
検察も不起訴とし、市民団体が申し立てた検察審査会でも「不当」の議決は出たものの、再捜査でも不起訴に終わったのです。
「医療目的」という言葉が免罪符になった30年
この結末が示すのは何か——「学術の名を借りれば、患者に対する重大なプライバシー侵害も、処分の対象になりにくい」という、ある種の前例ができてしまったということではないでしょうか。
そして約30年後、今度は「医者になるための勉強のつもりだった」という供述が飛び出します。
言葉こそ違えど、「学術・医療目的」を盾にして行為を正当化しようとする構造には、構造的に重なる部分を感じざるを得ません。
30年の時を超えて、同じ言い訳の文法が使われているとすれば、それは個人の問題ではなく、何かもっと根深いものが受け継がれてきた可能性を疑わずにはいられないのです。
正直なところ、この「地続き感」こそが今回の事件をより深刻なものに見せているのではないかと思っています。
なぜ滋賀医大で性加害が頻発するのか?過去の凄惨な3事件を検証!
3つの事件を時系列で並べると、その「異常な連続性」がより鮮明に浮かび上がってきます。
個別に見れば「たまたま」と言えなくもないかもしれませんが、同じ大学・同じ診療科・同じ構造的背景を持つ事件が繰り返されるとき、そこには何か共通する「地盤」があるのではないかと考えるのは、ごく自然な反応だろうと思います。
事件①:1995年・B氏による無断撮影・出版
まず1995年のB氏の事件(前述)です。
訓告処分という最も軽い行政処分で幕が引かれたこの事件は、「医療現場でのプライバシー侵害は、学術目的であれば黙認される」という誤ったシグナルを発してしまったのかもしれません。
「処分が軽すぎた」という批判は当時から根強くあり、その不満が今も語り継がれていることには、やはり理由があるように思えます。
事件②:2022年・学生3人による集団性的暴行と「逆転無罪」の衝撃
次に、2022年の集団性的暴行事件です。
滋賀医科大学の男子学生3人が、飲酒後に女子大学生に対して複数回にわたる性的暴行を加え、その様子を動画撮影したとして強制性交等罪で起訴されました。
一審の大津地裁では実刑判決が下り、主犯格の有罪は確定しています。
しかし2024年12月、大阪高裁の裁判長は被告2人について逆転無罪の判決を言い渡しました。
その理由として「被害女性の供述には、動画が拡散されることへの恐怖から誇張や虚偽の動機があり得る」「同意があった疑いを払拭できない」と指摘されたのです。
この判決に対し、反対署名は10万筆を超えました。
「2017年以前の時代に逆戻りしたようだ」という批判が法学者や支援団体から相次ぎ、被害者の心理的メカニズムに対する理解が著しく不足した判断だという声は、今なお根強く残っています。
高検は上告しており、最終的な司法判断はまだ確定していない段階です。
この「逆転無罪」という結末が、多くの人の不信感をより深いところへ押し込んでしまったのではないでしょうか。
事件③:2025〜2026年・元研修医Aによる妊婦盗撮
そして2025年8月頃に発生し、2026年6月に書類送検された今回の事件です。
産婦人科の研修中に派遣先の病院で、帝王切開直前・麻酔消毒後の妊婦を分娩台上で腕時計型カメラで撮影したとされる容疑は、「勉強目的」という供述とともに世論の激しい反発を招きました。
2026年6月10日に厳重処分意見付きで書類送検されたこの事件は、現在も進行中です。
3事件に共通する「構造」とは
3事件に共通するのは、「産婦人科という身体的・心理的に最も無防備な場」が舞台になっている点と、加害側に「権力・立場・知識」という圧倒的なアドバンテージがあった点でしょう。
患者は診察台の上で服を脱ぎ、医師の指示に従うしかありません。
学生は酒席での人間関係の中で声を上げにくい状況に置かれています。
そういう「逃げにくい構造」の中でこそ、こうした事件は起きやすいのかもしれません。
「なぜ繰り返されるのか」という問いへの答えは、加害者個人の資質だけでなく、その個人を生み出しやすい環境そのものを問い直すことにあるような気がしています。
医者の盗撮は重罪なのに資格剥奪なし?
「なんで逮捕されても医師免許が剥奪されないの?」——これは今回の事件をめぐる議論の中で、最も多く見かけた疑問ではないでしょうか。
患者という弱い立場の人間を、医師という権限を持って撮影したのだから、即座に資格をはく奪して当然——という感覚は、ごく自然な怒りの反応です。
ところが日本の制度では、医師免許の取り消しは「刑事有罪が確定すれば自動的に」というものではないのです。
医師法第7条と「医道審議会」の仕組み
医師法第7条に基づき、厚生労働大臣が医道審議会医道分科会の意見を聴いたうえで、「品位を損する行為があった」と判断した場合に初めて、戒告・医業停止(最長3年)・免許取り消しのいずれかが下される仕組みになっています。
つまり、刑事裁判と行政処分は完全に別ルートで進むということです。
刑事で有罪になっても、行政処分が出るまでにはさらに数ヶ月から1年以上かかることがあります。
そしてその処分も、「必ず取り消し」とはなりません。
診療行為を直接悪用したわいせつ行為や、児童への性的犯罪など特に悪質なケースでは免許取り消しの事例もありますが、盗撮単独や執行猶予付き判決では医業停止3年程度で終わるケースが多いのが現実です。
この「自動取り消しではない」という仕組みを知ったとき、多くの方が「そんな制度なの?」と驚かれるのではないでしょうか。
「再免許制度」という抜け道
さらに厄介なのは、取り消された場合でも「再免許制度」が存在する点です。
刑事罰が確定した場合、最低でも5年の経過後に再申請が可能とされており、医師不足という社会問題も相まって「更生の機会」が優先されやすい空気があります。
もちろん、更生の可能性を否定することは誰にもできません。
だが、産婦人科という密室で患者を撮影し「勉強のため」と言ってのける人物が、数年後に再び白衣を着て診察室に立つ可能性がゼロではないという現実——それを聞いて、安心できる患者さんはほとんどいないのではないかと思います。
現在の制度が被害者や患者の信頼を守るのに十分かどうか、あらためて問い直す時期に来ているのかもしれません。
「逆転無罪」が加速させた行政処分への不信
2022年の集団暴行事件における逆転無罪判決は、この「司法と行政の壁の高さ」への不信をさらに加速させました。
刑事裁判で「同意があった疑いを払拭できない」と無罪が出てしまえば、行政処分の根拠もあいまいになります。
司法判断が行政処分のトリガーとなる現行の仕組みでは、逆転無罪の場合に加害行為への制裁そのものが宙に浮いてしまうのです。
この構造的な問題は、今後の制度改革の議論において避けられないテーマとして浮上してくることになるでしょう。
「司法で無罪になったから行政処分もなし」という結果を繰り返さないためにも、制度の見直しは急務ではないでしょうか。
勉強目的は嘘?
今回の事件が発覚したきっかけは、病院ではありませんでした。
2026年2月7日、大阪・梅田のHEP FIVEで、女子高校生のスカート内をスマートフォンで撮影しようとした元研修医Aが現行犯逮捕されたのです。
そのときの供述は「女性の下着が見たくて盗撮した」というものでした。
この逮捕によって自宅が捜索され、腕時計型の小型カメラが発見されます。
そこに記録されていたのが、病院の分娩室での映像だったわけです。
さらに本人の自己申告によれば、駅やショッピングモールなど公共の場での撮影は「100回以上」にのぼるといいます。
「勉強目的」という供述の決定的な矛盾
ここで改めて「医者になるための勉強のつもりだった」という供述を振り返ってみると、その矛盾の大きさに強い違和感を覚えます。
梅田では「下着が見たい」と言い、病院では「勉強目的」と言う。
同一人物がこの2つの供述をしているという事実が、すべてを物語っているのではないでしょうか。
「勉強」という言葉は、1995年のB事件における「学術目的」と同じ機能を果たしています。
医療・教育という権威ある言葉を盾にすることで、行為の性質をすり替えようとする試みだということです。
しかも腕時計型の小型カメラという道具の選択が、「偶発的な衝動」ではなく「計画的な撮影行為」であったことを強く示唆しています。
腕時計型カメラを装着して分娩室に入るという行為は、事前に機器を準備し、装着し、カメラを向ける角度を意識した行動です。
それを「勉強目的だった」と説明しようとすること自体、相当に歪んだ認識を持っていたと見なされても不思議ではないでしょう。
患者が身を守るために今できること
では、患者側はどうすれば身を守れるのかという話になってきます。
現実的に考えると、診察室や分娩室での盗撮リスクをゼロにする方法は残念ながら存在しません。
ただ、病院に対して男性医師の立ち会いを制限する・女性スタッフの同席を求めるといった要望を伝えることは、患者の正当な権利です。
小型カメラが急速に普及している現代において、医療機関側もカメラ類の持ち込みチェックや研修医の行動監視を強化する必要があるのではないでしょうか。
「信頼しているから何もしない」という時代は、少なくとも制度設計の面では終わりにしなければならないと感じます。
医療倫理教育の「形式化」をやめるべき
医療側への提言として、倫理教育の「形式化」をやめることが最も重要ではないかと思います。
多くの医学部では倫理教育がカリキュラムに組み込まれていますが、それが試験のための暗記で終わっているとすれば、机上の空論でしかありません。
「患者は最も脆弱な瞬間に医師を信頼している」という事実を、体感として叩き込む教育——それが今の医学教育に最も欠けているものなのかもしれません。
知識として「倫理」を知っていることと、現場でその倫理を実践できることの間には、大きな隔たりがあります。
その隔たりを埋める努力を、医学教育の場でもっと真剣に議論してほしいと感じています。
「また滋賀医大か」という声を終わらせるために
今回の事件は現在進行中で、元研修医Aの医師免許や今後の刑事処分は未確定です。
30年前の助教授が訓告処分で終わったように、今回もまた「軽い着地」になるのかどうか——それを決めるのは法律と行政です。
そしてその判断を見守り続けることが、私たち市民にできる大切な役割を果たすことになるのかもしれません。
「また滋賀医大か」というため息が、いつか「あの大学は変わった」という言葉に変わる日が来ることを、願わずにはいられません。
医療は信頼が命です。
その信頼を取り戻すための一歩が、制度改革であれ教育改革であれ、一刻も早く踏み出されることを期待したいと思います。





