吉田響のシールが減った理由|集合体恐怖症を震撼させた黒テープの正体とは
「今日はシールが減ってて集合体恐怖症の人でも見れるねw」
2026年8月30日、北海道マラソンの中継を見ていた人が、そんな投稿をしていたのです。
そう、あの人がまた走りました。
今年2月の大阪マラソンで、顔から首、腕、足首まで黒い丸いシールをびっしり貼りつけて独走し、レースそのものより「見た目」のほうが話題になってしまった、あの吉田響選手(24歳・サンベルクス)です。
あのとき中継でアップになるたびに、思わず目を細めてしまった人、チャンネルを変えようとした人、「なんか…ムリかも」と声を出してしまった人がいました。
そういった「見られない」反応をした人の多くは、おそらく集合体恐怖症(トライポフォビア)の持ち主か、それに近い感覚を持つ人たちだったのだろうと思います。
そんな私も集合体恐怖症なので、この感覚はよくわかるほうです。
あれから半年、8月30日の吉田選手は、確かにシールが減っていました。
この記事では、北海道マラソンで何が起きたのか、あのシールの正体は何なのか、そしてこの半年で何が変わったのかまでを、「見られなかった人たち」の側に立ちながら掘り下げていきます。
北海道マラソンで シールは確かに減っていた
2026年8月30日、札幌の大通公園を発着点に、午前8時30分スタートで北海道マラソンが行われました。
吉田選手にとっては、2月の大阪マラソンに続く2度目のフルマラソンです。
しかも10日前に24歳の誕生日を迎えたばかりという、記念すべきタイミングでの挑戦でした。
そして中継に映った吉田選手は、やはり黒い丸を貼っていたのです。
ただ、貼っていた場所は顔と首と脚だけ。
前回のように全身をびっしり埋めるのではなく、要所に絞った貼り方で、サングラスも着けていました。
サンベルクスの田中総監督は、テープの目的を「神経とか筋肉の動きに柔軟性を出すため」と説明しています。
枚数について吉田選手本人は「枚数は当日のコンディションにもよります」と話していました。
SNSの反応は、2月とはかなり違うものになります。
「吉田響、ファイテン控えめ」
「今日は控えめな吉田響」
「吉田響くんの今回の磁気テープの貼り付けテーマは、ブドウ?」
そして冒頭の「今日はシールが減ってて集合体恐怖症の人でも見れるねw」。
2月に「怖い」「無理」と言っていた側から、こういう軽い声が出てくるようになったのは、半年でいちばん大きな変化かもしれません。
もちろん、全員が平気になったわけではありませんでした。
「前回ほどじゃないが、今日も吉田響が黒いシールを気持ち悪いほど貼りまくってる」という正直な投稿も、ちゃんと残っています。
減ってはいるけれど、ゼロではないというのが、今回のリアルな見え方でした。
肝心のレースのほうは、30キロ過ぎでペースメーカーが外れた直後に吉田選手がスパートします。
35キロ地点では2位集団に約20秒の差をつけ、堂々の独走状態に入りました。
ところが残り5キロあたりで追いつかれ、38キロ過ぎには先頭集団から脱落してしまいます。
結果は2時間13分16秒で9位、ゴール直後は道路に倒れ込み、車椅子で運ばれていきました。
優勝は残り1.5キロでスパートした湯浅仁選手(トヨタ自動車)の2時間10分46秒です。
2位が丹所健選手(Honda)で2時間10分55秒、3位が荒生実慧選手(NDソフト)で2時間10分59秒でした。
MGC(マラソングランドチャンピオンシップ=ロサンゼルス五輪の日本代表選考会)の出場権は「2時間12分以内で日本人3位以内」が条件で、この3人が獲得しています。
つまり吉田選手は、2大会続けてMGC出場権を逃したことになりました。
あの「黒い丸」がどうしても見られない人たち
まずはっきり言っておきたいのですが、あの見た目に不快感を覚えた人は、感覚がおかしいわけでも、心が弱いわけでもありません。
集合体恐怖症、英語でトライポフォビア(trypophobia)といいますが、これは密集した穴や斑点、丸いものの集まりに強い不快感や恐怖を感じる症状のことです。
蜂の巣、蓮の実、タコの吸盤、スポンジの断面……そういった「ぶつぶつ」したものを見ると、ゾワゾワしたり、鳥肌が立ったり、なんなら吐き気を感じたりする人がいます。
どれくらいの人に起きるのかというと、よく引き合いに出されるのが2013年の研究です。
英国エセックス大学のコールとウィルキンスが成人286人に蓮の実の画像などを見せたところ、16%の人が嫌悪感を示したという結果が出ました。
ここは少していねいに書いておきたいのですが、この16%は「日本人の16%」でも「人口の16%」でもなく、その研究に参加した286人のうちの割合です。
それでもざっくり6人に1人、決して珍しい感覚ではないということは言えるでしょう。
そう考えると、吉田選手の全身テープが中継でアップになった瞬間に「見られない」と感じた人がかなりいたのも、数字的には十分納得できる話になります。
2月のXには「瞬間的にやばいやつ」「怖い」「鳥肌立つ」「脚までびっしり貼ってる、最悪の見た目(本人の努力は尊重してます)」といった正直な声があふれていました。
「悪気はないんです、蓮コラ(よいこは検索しちゃいけません)を想像してしまっただけなんです」というポストには、多くの人が「わかる」とうなずいたのではないでしょうか。
なぜあの黒い丸が「そう見えてしまう」のか
トライポフォビアが起こるメカニズムについては、進化心理学の観点から面白い説明があります。
先ほどのエセックス大学の研究では、密集した穴や斑点のパターンが、毒を持つ生物の皮膚や模様と視覚的に似ていることが指摘されました。
タコ、コブラ、毒キノコ……人類が長い歴史の中で「近づくな」と学習してきた存在の見た目と、あのパターンが脳内で結びついてしまうのです。
「危険かもしれない」という本能的なアラームが、見た瞬間に鳴り響く感じ、といえばわかりやすいでしょうか。
吉田選手の体に並んだ黒い丸の密集は、まさにそのアラームを押してしまうビジュアルだったわけです。
これは選手への悪意でも批判でもなく、人間の脳が持つ原始的な防衛反応であり、「見てしまったら怖かった」という感覚はいたって自然なことといえます。
日本では2ちゃんねる時代から「蓮コラ」(蓮の穴を合成したコラージュ画像)文化があり、トライポフォビアへの認知度が比較的高い国でもありました。
だからこそXでの反応も早く、2月のレースでは開始から数十分のうちに「見られない」「無理」という声が広がっていきます。
そして8月30日に「今日は控えめ」と真っ先に気づいたのも、たぶん同じ人たちなのでしょう。
結局あのシールは何なのか?正体と目的
「見られない」という感情は十分わかった上で、それでも気になるのが「じゃあアレって何なの?」という疑問ですよね。
正体はファイテン社が販売する「パワーテープ」というボディケアアイテムです。
スポーツ用品店やドラッグストアでも普通に買えるもので、ファイテン公式ストアの価格は70マーク入りで770円(税込)。
「え、市販品なの?」と驚いた視聴者が多かったのも無理はありません。
あれだけ全身に貼られていると、最先端の医療機器か何かに見えてしまいますから。
テープの粘着面には炭化チタンがコーティングされており、ファイテン社独自の「アクアチタン技術」によってチタンをナノレベルで水溶化し、生地にしみ込ませた状態で体に作用します。
チタンは体内を流れる生体電流(微弱な電気信号)に働きかけることで、筋肉の緊張をほぐし、血流を改善する効果があるとされています。
2月の中継でアナウンサーが「筋力のリラックスを期待して貼っているそうです」と紹介していましたが、吉田選手の場合はかなり戦略的に貼り場所を選んでいました。
こめかみには「太陽」と呼ばれるツボがあり、集中力の維持や目の疲れ、ストレス緩和を狙ったもの。
首の胸鎖乳突筋には、体重の約10%もある頭の重さを支える負担を軽減し、呼吸を楽にする効果を期待。
二の腕の裏側には腕振りをスムーズにする目的で、腸腰筋(おなかの奥の筋肉)には体幹のバランス維持のために貼っています。
大阪マラソンのとき、田中総監督は枚数について「50枚か、100枚以上は貼ってますね。今朝6時に私の目の前で貼りましたので…」と明かしていました。
解説を務めた浅尾美和さんも「顔まで貼るのは見たことがない」と驚いていたほどです。
ドーピングやルール違反を心配した視聴者もいたようですが、パワーテープは薬品成分を一切含まず、日本陸連の規則上も問題のない医療用ケア製品になります。
そしてここが今回いちばん腑に落ちたところなのですが、あの「全身びっしり」にはちゃんと理由がありました。
吉田選手は北海道マラソン前の取材で、こう説明しています。
「大阪では体のメンテナンスで少し失敗したところもあって、あれだけたくさんのシールを貼ることになりました」
つまりあの枚数は、気合いでも演出でもなく、調整がうまくいかなかったサインだったわけです。
「北海道でもどこかには貼っていると思いますが、大阪のようにたくさん貼るかどうかはわかりません」とも話していて、実際そのとおりになりました。
半年で変わったのは 見た目ではなく立場だった
2月の時点では、吉田選手は「市販のテープを大量に貼っている選手」でした。
ドラッグストアで買える700円台の商品を、自分の判断で全身に貼っていただけでした。
ところが2026年7月1日、ファイテン社が吉田選手とボディケアサポート契約を締結したと発表します。
テープ、ネックレス、ローション、光技術の「健光浴シリーズ」まで含めた、本格的な契約でした。
吉田選手はこうコメントしています。
「ファイテン商品は貼った瞬間、使った瞬間から変化を感じることが大きな特長で、今後、プロランナーとしてさらに高いレベルを目指すためにも必要と考え、今回の契約に至りました」
ここ、けっこうすごいことだと思うのです。
2月にあれだけ「怖い」「気持ち悪い」「集合体恐怖症には無理」と言われた見た目が、そのまま企業との正式契約になったのですから。
ネタにされたことが、結果的に本人とメーカーの両方にとってプラスに働いた形になります。
2月にこの話題を書いたとき、私は「今後こういう選手が増えたらどうなるんだろう」という不安を書きました。
中継のアップを控えるとか、事前に一言あるとか、そういう配慮があってもいいのではないか、と。
でも半年経って実際に起きたのは、「増えた」ではなく「本人が減らした」という展開です。
しかもその理由は、集合体恐怖症への配慮ではなく、単純にコンディションが良かったから。
正直に言うと、拍子抜けするような、ちょっとほっとするような、複雑な気持ちになりました。
誰かが我慢を強いられたわけでも、誰かが謝ったわけでもなく、ただ選手の体調が整っただけで見え方が変わってしまったのです。
それでも「今日は見れるね」と言えた人が確実にいた以上、テレビの向こう側にはこういう感覚を持った視聴者が一定数いるということになります。
中継や報道の側がその存在を頭の片隅に置いておくこと自体は、これからも無駄にはならないでしょう。
それでも吉田響は 2回とも倒れるまで走った
集合体恐怖症の話を丁寧にしてきましたが、最後に忘れてはならないのが、あのテープを貼って走った吉田響選手本人のことです。
2月の大阪マラソンは、彼にとって初マラソンでした。
8キロ手前でペースメーカーの前に出て独走を始め、35キロ通過の1時間43分21秒は日本最高のタイムを記録します。
そこから急失速し、最終的に2時間9分34秒の総合34位。
ゴール後は起き上がれず、車椅子で救護室に運ばれていきました。
本人はレース後、「32km過ぎに低血糖と脱水になってしまい、やめてしまいたい気持ちも頭をよぎりました」と明かしています。
それでも「結果としては悔しい形になってしまいましたが、自分にとっては最高の大阪マラソンになりました」と書いていました。
そして8月30日の北海道マラソンでも、30キロ過ぎに独走に持ち込み、35キロで20秒差をつけ、また終盤に力尽きて倒れ込みます。
2回とも、最後は自分の足で立てなくなるまで走っているわけです。
この日、4位でゴールして学生トップになったのは、吉田選手の母校である創価大の山口翔輝選手(3年)でした。
タイムは2時間11分47秒、中盤では先輩と競り合う場面もあり、「響も抜いて本当に素晴らしい」という声が上がっています。
抜かれた側にとっては悔しい話ですが、そういう場面を作れる選手だということでもあるでしょう。
北海道マラソン前、吉田選手は「次の冬のマラソンでは最後までそれで押し切り、2時間3分台の日本記録を目指します」と話していました。
2回続けて終盤に沈んだ今、この言葉がどう響くかは人それぞれだと思います。
それでも、こう言い切れる選手はそう多くありません。
見られなかった人も、笑った人も、応援した人も、みんなが吉田響という選手に何かを感じた半年でした。
そして今回、「シールが減っている」といちばん早く気づいたのは、2月にいちばん「見られない」と言っていた人たちです。
見ていないふりをしながら、ちゃんと見ていたということになります。
それはそれで、けっこう温かい話なんじゃないかと思っています(それでも私はアップだけはムリだけど)。





